[112]患者さん本位の医療を目指して

 この夏、プールでゆっくり空を見上げていて、「都会の真ん中でも、なんて青く美しい空なんだろう、吸い込まれそうだ」と感じました。また家の近くの木々を眺めただけなのに、こんなにじっくりと眺めることがなかったためか、生き生きとした緑の素晴らしい自然の色彩に改めて感動してしまいました。普段も自転車に乗りながら、空や木々を眺めていたつもりでしたが、見る態勢や時間、自分がなにをしながら見ているかで、こんなにも感じ方が違うのだなと思いました。自転車に乗りながら見ている状態と、そうではなく身の安全が確保された状態で見ているのとでは、頭の中で情報を処理する場所や深さが違うのかもしれません。

オリパラを医学でたとえれば

 前回の原稿を書いたときは、東京オリンピックの最中だったため、選手たちは他の選手と戦う以前に、常に自分と戦っていることや、そのときその瞬間にすべてを出し切ることの大切さを、競技を通して感じました。
この原稿を書いている時点では、東京パラリンピックの真っ最中。選手はそれぞれの障害に応じてレベル分けされ、同じ程度の身体能力の人同士が競い合える工夫があります。水泳では、足が不自由な方と手が不自由な方が同じ試合に出ることもあり、スタートの際には台から飛び込む選手と、プールの中から蹴伸びする選手がいます。
私はよく水泳をします。五体満足でもなかなか真っ直ぐに進めないこともあるために、目の見えない選手や、手を失いかつ足の長さも違う選手が懸命に泳いでいる姿を拝見して、感動せざるを得ない状況に陥りました。
まず第一に思ったことは、私の苦労や苦痛は屁でもないということです。自分が苦しくなると人のせいにしたり、言い訳をしようとしたりしてしまいますが、そんな自分が情けなくなります。また右手だけでクロールをしている選手を拝見したときには、真っ直ぐ進むためにどのように努力されてきたのかと、泳いでいる姿に目を奪われました。体幹を鍛えるなど、当然、さまざまな方法で筋肉トレーニングをされているのだと思いますが、やはり五感、感覚が鋭いという点が、他の人とは違うんだなと感じました。
人間はいずれかの機能が失われても、他の機能が代替えして、同じことをできるようになるのではないか。歯の治療を通して、私はそう考えてきました。足や手、首、身体全体と歯は繋がっているので、なにかのトラブルを歯で調整できるはずだと思っていたのです。歯のかみあわせが狂うと全身への症状が出るということを、日々患者さんから教えていただいています。
そこでふと感じたのは、オリンピックとパラリンピックは、医学でたとえると西洋医学と東洋医学なのではないかということです。目から泳ぎ方を学び、理論や統計などからフォームを改善して早く泳げるようになるエビデンスベースの西洋医学。それに対して、感覚を研ぎ澄まし、実践での義足の角度の調整や、右手だけでクロールを泳ぐときの首の角度や手を掻く軌道など、その人ベースの実践的な個別化医療をするのが東洋医学。何千年の歴史を伝承するツボや気功などと同じ流れです。 目や耳、身体が不自由であっても、素晴らしい音楽を奏でる演者の方にも、共通のアプローチを感じます。
私は、〝気〟に対して向き合う医療をしています。「ここおかしい気がするんですけど」。患者さんの言葉にするのが難しい身体への反応に、「そう思うのはなぜだろう?」「なにがそうさせているのか?」と考え、個々の症例で検討してきましたが、往々にしてエビデンスベースの医学の場合、「それは精神的なものだろう」と結論づけられることが多いと思います。それが原因の場合もあるでしょうが、患者さんの想いを感じながら治療のお手伝いをしたいと、日々過ごしております。